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NPL(日本周辺機株式会社)

むかしNPLという会社があった。国際的にはそこそこ有名だったが、今や国内にその名を覚えている人は少ない
2016.08.17 追加

1970年頃、コンピューター業界は、まだパソコンどころかオフィス用コンピューター(オフコン)と言われる小型機さえ存在しなかった。
メインフレームと呼ばれる大型コンピューターしか存在しておらず、コンピューターではなく、電算機と呼ばれていた。
世界中でIBMだけが図抜けて大きな存在だったが、日本だけが貿易障壁に守られて6社ものコンピューターメーカーがひしめいていた。
当然激しい自由化圧力がかかっていて、通産省と業界は対処を迫られていた。苦心の上、1,2位、、3,4位、5,6位連合というかなり特殊な形で
国内6社のグループ分けが成立した。そのへんの経緯については『日本コンピューターの黎明』 田原総一郎著に詳しく記述されている。



その1,2位にあたる富士通と日立は、IBMとのOS互換を目指して、合弁会社FHL(OS開発)とNPL(周辺機開発)とを設立した。
FHLはその後有名無実化したが、NPLはその後15年にわたってPCM機(注1)を海外へ輸出するという形で活躍した。
海外への販売が 主力であったため、海外では当時注目を集めたが、国内では当時でさえ知る人は少なかった。
今やネットでその痕跡を探し出すのさえ困難なほどである。

その設立時から31〜41歳という、技術者として最も脂の乗った時期をそこで過ごした者として、NPLという会社について書き記しておきたい。

ある日課長から、『今度NPLという合弁会社ができ、そこへ出向することになった、君も一緒に来ないか』という話があった。
『来れば最初の仕事は2週間の米国出張だぞ』。”2週間の米国出張”というのは、当時としては出向というリスクをとってでも、十分魅力的な話だった。
合弁相手が、前に2年あまり勤務したことのある日立だという気安さもあってOKした。
出向後、親会社双方に勤務経験があることは予想以上に私にとって有利に働くことになったのは望外の幸せだった。

注1 PCM
 当時のコンピューター業界ではIBMだけが突出したメーカーであり、ユーザーに対しては直接販売をせず、レンタルという形で ビジネスをしていた。
レンタル料は、本体、プリンター、カードリーダー、磁気ディスク装置、など各種周辺機ごとに個別にレンタル料が設定されていた。
独占だから、当然極端に高い値付となっていた。このため磁気ディスク単品を、インタフェースと記憶容量だけを一致させて、置換し、 ユーザーにはIBMより安い値段で貸し付けるというビジネスをするメーカーが活躍していた。
Plug Comptibl Manufacturer (PCM)である。

 

 

NPL 設立


右端が橋本一二社長(常勤)
左から2番目が山本卓眞社長(非常勤)
NPLはIBMが磁気ディスクの新技術ウインチェスターテクノロジーの最初の適用機種、IBM3340の互換機NP20を開発することにした。

IBMから3340装置を数台買取り、分解調査してコピーするのである。
当時IBMは日本でのビジネス展開と引き換えに、日本の電算機メーカーとクロスライセンス契約をしており、こんなデッドコピーが可能だったのである。
互換機を作るのに全く同じものでは芸がないと、アクセスタイムをIBMの25msより早い20msを目指した。

設計開始

デッドコピーは技術供与ではないから、設計図・設計思想の伝達はない。モノをバラして設計意図を推測することから始める 面白さがあった。
既にかなりの部分がIC化されており、ICチップの写真を撮って拡大し、回路図に変換するのは結構な大仕事であった。
出来上がった各部分を組み合わせてスタートボタンを押すと、メカ部分がゴソゴソと動き出した。さすがに最後までというわけにはいかず途中で止まるのだが、 そこでストップボタンを押すと、ゴソゴソと動いて元の位置に復帰したのには驚いた。
IBM本体に接続完了するまでに9ヶ月ほどかかったが、自分でゼロから設計する場合より随分早かった。デッドコピーは早い! というのが実感だった。

NP20完成・NCC出展




NPLは開発早々のNP20をNCC’75に出品してその開発の早さと製品の完成度の高さで注目を集めた。 IBMは3340を新テクノロジーの市場テストのつもりで出したらしく、出荷台数が少なかったため、従来のPCM各社は開発を見送った。
結果としてIBM3340互換機は世界でNP20一機種のみとなった。

NP20商談成立


これに興味を持った従来のPCM2社(BASF社 ドイツとMEMOREX 米国)との商談が成立し、NP20は日本から欧米への磁気ディスク装置の初輸出を果たし順調なスタートを切った。
こう書けば至極簡単にことが運んだように見えるが、ヨーロッパ、アメリカへの売り込みキャラバン、両社に絞り込んだ後のそれぞれからの工場査察など、ハードルは低くなかった。

両親会社の信用でそれを乗り超えたあとに待っていたCE教育は尚更大仕事だった。
第一はCEマニュアル作り、第二は英語。もともと国内ではCEマニュアルそのものがなかったのだから、それを始めから英語で書き、英語で講義するなど想像もつかなかった。技術陣にとって、開発以上の難事業だった。

売ったあとの市場での故障対応は思ったより難しくなかった。彼らが以前に扱っていた装置に比べて桁違いに故障が少なかったのが大きい。
CEマニュアルも、設計者自身が書いたものだから、精度が高く、現場のCEにとって使い勝手の良いものだったようだ。

何にも増して都合が良かったのは、ヘッド、ディスクという、磁気ディスク装置にとって最もリスキイな部分がNPLの商品である装置部分に含まれておらず、IBMが供給するデータモジュールに含まれていた点であろう。

NPL 急成長


猪島正男2代目社長(常勤)披露
1982.06 NP20シリーズ 8000台達成

NP24,25開発

しばらくは、超順調とも言うべき出荷が続き、増産に伴う人手と次の機種に備える技術陣の増強が続いた。
次の新機種は、IBM3344,3350(240、250MB)相当機種で、NP24、NP25として開発した。

記憶容量が70MBから約4倍に増え、交換媒体型から固定媒体型になった。
HDDの中で最も難しく、故障リスクの高いヘッド/媒体が装置側が持たねばならないタイブになったわけである。

当然、HDDメーカーなら皆が苦労するヘッドクラッシュ障害との格闘を強いられ、リコールやら現地改造などをくりかえしながら、やっとの思いで切り抜けることが出来た。

小型化の波が襲来

1980年、NPLにとって大きな変化が起きた。
IBMの次機種3380が、HDA組み立て工場の除塵能力などの点でNPLの手に負えない難度に達したこと、
この年を境に業界全体が14インチディスクを離れて、8インチ、5インチへとダウンサイジングに向かったこと、
コンピューター業界が、大型メインフレームを離れ、中・小型オフコンが量的に優勢となったこと、
NPLが狙ったIBM互換の8インチディスクの数量が非常に少ないという見通しであったことなどから、NPLもダウンサイジングの流れに乗ることにした。

この潮目の変化はNCC’80に如実に現れていた。富士通が別会場設けてラックマウント型10.5インチドライブを展示、
シーゲートが特別会場で5インチディスクドライブを展示、本会場は富士通とシーゲートの8インチドライブが席捲という具合で、
NPLの8インチドライブにはIBMエンジニアが『随分早くできたな』などと冷やかしに来る始末で閑散としていた。

NP05開発

シーゲートの5インチディスクは、今まで14インチのディスク ”装置” を作っていた者の目には、オモチャとしか見えなかった。
だが、次の製品の見通しが立たないNPLにとっては、重要な次期機種だった。慎重な日本企業はこんなオモチャみたいなものと馬鹿にして、誰もやらない。
NPLがやりたいと言っても両親会社は承認しない。そこでNPLの経営陣は、両親会社からの承認を得られないまま、ともかく開発へと突進した。
シーゲートから輸入して、障害に苦しんでいた国内のオフコンメーカーから続々と注文が来て、瞬く間にNPLの次期主力機種となった。
経営陣の果敢で素早い決断と従業員の努力、顧客からの強い支持の賜物だったと言えよう。

NP05のインタフェースはシーゲート互換のため、読み取りデータを、データとクロックが未分離のまま送り、本体側で分離するタイプだった。
そのため、分離回路は、NP05の買い手であるオフコンメーカー側が自分で設計製造する必要があった。
その分離回路設計が悪いと、NPLの出荷試験では読めたデータが、顧客の受け入れ試験では読めないという障害の多発に悩まされた。
呼ばれて行ってみると、こちらは正常なのに、向こうのデータ分離回路の能力不足という場合が多かった。

日本の商習慣では、『お客様は神様です』がまかり通っていた時代だから納得させるのが大変だった。
結局、こちら側で『データ分離回路の能力測定器』なるものを作り、顧客訪問時に持っていくことにした。
それで測定すれば一目瞭然だし、向こうの回路図を見て、修正助言をすれば大幅に改善される。
いかに神様顔をしても、証拠を突きつけられれば顧客も納得せざるを得ない。
あちこちの顧客でやっているうちに評判になり、データ分離回路設計のコンサルティングを頼まれるようになった。実に爽快な気分だった。


1983.03 10000台達成
1983.08 20000台達成

その他の多様な機種

NPLはIBM互換の磁気装置を開発することを使命にしていたから、磁気ディスクの他に、マス・ストレージ・システム、(IBM3850)や、
ストリーミング・テープ(IBM8809)、8インチディスク(IBM3310)など他のPCM各社が敬遠するようなものも開発した。
それらをIBM互換機としてではなく、中型MSSに模様替え(NPL60)したり、ラックマウント型ストリーミング・テープ(NP80)としたり、
市場のニーズに合わせて色々な装置を開発した。






NP60の内部構造


やがてメインフレーム型が主流でなくなると共に、NPLの存在意義がなくなり、1987 年3月に解散した。
両親会社はNPLの製品を買わなかったが、NP20シリーズでは海外に、NP05では国内にNPL自身で販路を開き、15年間自活し続けた。
解散時に両親会社それぞれに3億円あまりを分配し、大いに喜ばれた。
従業員全員が両親会社からの出向者であったが、皆無事に出向元へ帰任した。

解散後の交流


解散10周年記念パーティ
  前列中央 左側・橋本一二初代社長 右側・立田時雄2代目社長(非常勤)

解散後延々30年近く続いているメモリアルコンペ

NPLが出来た頃、『FとHが左手で握手して右手で殴り合っているようなもの。長続きするする筈がない』と揶揄する人が多かった。
当たっている部分もあるが少なくとも、NPLが存続した15年間は、『左手は握手していた』のである。
解散後両親会社は元のライバル関係に戻ったが、NPLに在職したことのある従業員たちは上の写真のように時にはパーティを開き、
年に2回の春秋のゴルフコンペは今日現在に至るまで延々と、暖かい交流を続けている。解散10周年パーティに際しては、当時富士通会長になっていた、
初代NPL社長(非常勤)の山本卓眞氏から『あの時のメンバーが今も交流しているのは大変嬉しい。末永く続けてほしい。』旨のメッセージが届けられた。

NPLが存在した期間が昭和48年から昭和62年の15年間。
『会社は株主のもの』ではなくて、『経営者、従業員、顧客の共同体』であった頃の、いかにも昭和の香りを漂わせる話ではないか。

ところで、我々が心地よいと感ずる『昭和』というのはどんな時代だったのだろうか。昭和20年以前を心地よいと思う人はほとんどあるまい。
『平和で、自由平等で経済は右肩上がり。皆が、明日は今日より良くなると信じることが出来た時代』、昭和20年以降の昭和であろう。
では、そういう時代を日本人自身が築いたのか? 一部はそうかもしれないが、大部分は、『気前の良い兄貴分であったアメリカのおかげ』であろう。
もうひとつは、アジア諸国が『ずっと遅れた後進国』だったこと。これを書いていて、『アメリカのまねばっかりしていたのに、自分でやっているように
楽しく仕事をして、しかも周りの誰も競争を仕掛けてこなかったものだなあ』とつくづく思わざるを得ない。

そして昭和は終わる。ベルリンの壁がなくなりソ連が崩壊する。
その頃にNPLも解散し、やがて失われた○○十年の間にアメリカは気前の良い兄貴分ではなくて本気の競争相手になり
日本企業はインテル、マイクロソフト、アップル、アマゾン、グーグル等に完敗してしまう。
その一方で中国は軍事力でも経済力でも強くなり、台湾でさえシャープを飲み込んでしまうような今になった。みんなが昭和を懐かしがるわけだ。

それはともかく、NPLという会社の話は私が墓場に持っていくだけではもったいないと思い、ここに書き留めておくことにした。


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